お試し読み
(14) All in Good Time~やがて時がくれば~
Contesnts 感想と深読みと期待❤Many Happy Returns
※この突発本は、クリスマスイブに公開されたBBCのSHERLOCKミニエピソード"Many Happy Returns"に基づいております。
Youtubeに上がっておりますので、未見の方はぜひご覧になってお読みください。 |
※実物誌面は縦書きの二段組です。
All in Good Time~やがて時がくれば~ …彼の髪の色と感触を、自分は気に入っているのだ…と、レストレード警部は一人で認めた。褐色がかったブロンドの髪は、少し伸びてウエーブが出ている。間近に見ると触りたくなる。だが触れようとした手を彼はひっこめた。今は起こしたくない。 ジョンは習慣で枕元のスタンドをつけたままにしている。目覚めたときに部屋の様子がわからないと不安だ、というのが理由だ。小さな部屋の中は相変わらず物が少ない。ベッドの上にはいまだにユニオンジャックのクッションが置いてある。そのすぐ側でジョンの枕代わりに腕を貸しているのを、警部は奇妙にも後ろめたく感じた。誰に対してなのか。 …だがジョンが眠っている顔を見ると、警部の心は安らいだ。思えばそれは、ジョンだからではないかもしれない。彼は誰かの代わりだ。スタンドの薄明かりが、ジョンの片側の頬だけを照らしている。疲れた大人の顔と、無邪気な子供の顔が奇妙に同居している。 彼らはその夜、二人の大人が一緒に眠る理由になるようなことはしなかった。もうやめよう、と決めてからずっとそうだ。大人の男二人が「なにもしないで」同衾するのは、よほど不自然かもしれない。だが二人にとっては、警部がときどき部屋に立ち寄る日の、自然な流れになっていた。ジョンは警部の家には行かなくなったので、二人が会うのはここだけだ。 警部は何年も前の「子供を寝かしつけるとき」の感覚を、思うともなく重ね合わせていた。絵本を読んでやる代わりに、最近警察であった話をあれこれ聞かせる。ジョンも勤め先の出来事を日誌のように話し、警部はそれを聞いてやる。今働いている小さな診療所ではたいした出来事もなく、退屈な内容ばかりだ。だがそんなことを話している間は、ジョンの思考は過去へさまよい出さない。彼にはまだ過去から守られる時間が必要だった。 「今のジョン」のこういうところに引かれているのだと、警部は自覚し始めていた。言葉にすれば否定するだろうが、ジョンは誰かにしがみつきたがっている。誰かに。あるいは何かに。手すりがあればそれにつかまるという程度に。そしてそこに自分がいたから、彼は自分にすがった……それだけのことだと、警部にはわかっていた。 だがそのおかげで、警部は誰かをいたわり、支えているという感覚を味わえた。自分を「誰かを支えるに足る」力強い存在だと、感じることができた。これも何かの代わりだ。彼が本当に頼られたい相手は、別の誰かだ。その得られない相手の代わりに自分を頼ってくれるものを、警部はどこかで求めていた。これが普通の意味の愛情や同情でないことも、警部にはわかっていた。そして人に弱みを見せたがらないジョンが警部にこんなことを許すのも、たぶん「何かの代わり」なのだと。 警部はあらためて、腕のなかで寝息をたてているジョンを見た。こんなふうに安心した寝顔を、妻が見せてくれなくなってからどれくらい経つだろう。 ときどき深夜に目がさめ、隣に寝ている妻の背中を見ることがある。彼女はいつも彼に背を向けて寝ている。手を伸ばせば触れられる。だがそうすれば何かが壊れてしまう。そんなあやういバランスの上に夫婦は立っていた。彼らはまだ元にのさやに戻ってはいない。 カウンセラーのアドバイスに従い、「努力して」近所の集まりに顔を出したりするうちに、二人は円満な夫婦を演じることだけがうまくなってしまった。娘たちは、幸せな家庭の芝居に加わることは拒否していた。ただ、両親が揃ったテーブルが一時的なものにすぎないのか、少し離れて見極めようとしている。半ば冷笑的に、半ば臆病に。はかない希望で傷つきたくないのだ。 …体裁を取り繕おうとすればするほど、心が離れていくようだ。カウンセラーってやつは、問題を解決する気なんかないんじゃないのか。別れるまでの時間を引き延ばしているだけじゃないのか。「問題」が長引けば、彼らはより長く報酬を得るのだから―― ふいに警部の携帯が鳴り、彼は現在に引き戻された。どうやってジョンを起こさずに電話に出よう…と、ほんの数秒迷ううちに、ジョンが眉をしかめて目を覚ました。警部はジョンの頭の下から腕を抜いて立ち上がると、椅子に放り投げていた上着に歩み寄り、内ポケットから携帯をとった。 ジョンはぼんやりと、小声で話している警部の背中を見上げた。枕元のデジタル時計を見ると、五時を回ったところだった。 「…ああ…ああ、すぐに行く」 警部は携帯を上着に戻すとシャツを着始めた。 「ヤードか?」 ジョンが声をかけた。警部は動作を止めずに答えた。 「ああ」 「…コーヒー飲んでくか?五分とれるならだけど」 警部がしきりに目をこすっているのを見て、ジョンが聞いた。レストレードは振り返るとうなずいた。 「ああ、もらいたいな」 ジョンはベッドから出て、隣の小さな台所に入るとやかんを火にかけた。 「うらやましくない仕事だよな。いつもこんなふうに呼び出されるのか?眠ってるところを」 …眠ってはいなかった、と言おうとして警部は口をつぐんだ。君の寝顔を見ていたなどと言ったら、ジョンは返事に困るだろう。 「医者だってそうだろ」 「非番の時まで呼び出されたりしないよ。あそこは救急じゃないし、警察の仕事とは違う」 「…いや、ヤードへ行くけど仕事じゃないんだ」 「ああ、『英国政府』か。七つの海でも支配しようってのか?」 ジョンは皮肉めかして『ルール・ブリタニア』のメロディーを口笛で吹きながら、インスタントコーヒーをスプーンでカップに落とした。マイクロフトを話題にすると、いつでも皮肉な態度になってしまう。 警部は言うべきか迷うようにジョンを見ていたが、やがて首を振って答えた。 「…いや……違うよ。アンダーソンだ」 「アンダーソン?」 ジョンは振り返った。シャーロックにたびたびバカにされ、彼を「サイコパス」と呼んだ男の、のっぺりとした顔を思い浮かべた。彼はドノヴァン巡査部長とともにシャーロックに疑いを抱き、結果的に彼を追いつめた一人でもあった。少し胸が重苦しくなったが、ジョンは吹っ切るように首を振った。 「…仕事じゃないって言ってなかったか」 「ああ…いや、違う。仕事のことじゃない。あいつは最近おかしくてな。なんていうか…」 警部は宙を見て言葉を探したが、なにも出てこなかった。 「…おかしいんだ」 ジョンは眉をしかめた。 「どんなふうに?」 警部が答えようとすると、また携帯が鳴った。警部はため息をつき、携帯を取り出した。 「――アンダーソン」 電話の向こうのアンダーソンは、なにかに追われるような声で早口に言った。 『警部、お宅に行っちゃいけませんか。ヤードじゃ話しにくいことなんです』 「うちに?いや…なんでヤードじゃだめなんだ?」 『じつは近くに来てるんです。すぐ行けますから…』 「――来るな!」 警部は反射的に手を前に出して、なにかを押しもどすような間抜けな動作をしながら大声で言った。ジョンはびっくりして警部を見た。 『…ご迷惑なのはわかってますがこれは非常に重大な…』 「いや、そういう意味じゃない。その…今俺は…ああ…うちにはいなくて……」 『…どこにいるんです?』 |